蜀同盟

蜀の民よ、集いたまえ。~諸葛亮中心の三国志話と、現代世俗話~

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蜀同盟(c)吉野圭

馬岱のこと

レッツスタディ。
自分自身、誤解していたところも多い蜀の人物について少しずつ勉強していこうと思う。
まずは馬岱とその周辺から。
(本当は姜維について書きたかったのだけど、考えるところが多いのでもう少し後にしたい)

馬岱 (ばたい~生没年不明) は、謀反を起こした魏延を斬った部隊の長である。
正史には伝がないので馬超の一族である以外、詳しいことは分かっていない。
なお馬超は裴松之注によれば羌(チベット民族)との混血。

つまり山岳の遊牧民族出身ということになるか。馬岱についてはどうだか分からないが、同じ一族の者として羌との関係があったかもしれない。
余談だが姜維もチベットに近い涼州の出身である。
姜という姓は、羌との関わりを示すものらしい。つまり姜維にも西方の血が混ざっていたと推測しても良い。

さて正史では伝のない馬岱。
しかしフィクションの『三国志』では、なかなか詳しく魅力的に描かれている。(らしい。フィクションを読んだことがないのに知ったかしてしまった、笑)
以下はフィクションの話

北伐時に諸葛亮が火計で司馬懿もろとも魏延を排除しようとしたが、運が良く魏延には火計がかからずに策が失敗した諸葛亮が次の策として、火計を指揮していた馬岱を苦肉の策を使い魏延配下とさせる。
そして諸葛亮の死後、魏延が反乱を起こす事を先んじて見抜いていた諸葛亮により策を与えられていた馬岱は、魏延に気に入られるように努めて魏延と共に反乱を起こし、魏延が魏に降りないように監視をし、さらに魏延が楊儀と口論した際に「わしを殺せる者があるか!!」と豪語したところ、「ここにいるぞ!」と言い、魏延を斬った。馬岱は諸葛亮に魏延が「俺を殺せる者はおるか!!」と言った所を斬るように命じられていた。馬岱は魏延の爵位をすべて譲り受け、忠臣ということを認めさせた。

ウィキペディア より引用 

真相はおそらく、こう。 
諸葛亮の生前からあった二派の争い――すなわち「諸葛亮に従う者」「反発する者」の争い(ここは私のイメージ)は、諸葛亮が死んだ直後に表面化した。
楊儀との闘争に敗れ、楊儀によって謀反の疑いをかけられた魏延は逃亡した。
しかし楊儀の命を受けて討伐に向かった馬岱に捕まり、殺されたという。
脱力する話である。
諸葛亮がこれを知ったら溜息をつくだろう。
自分の死後に派閥闘争が激化することは予測していたとは言え、まさかここまで早く、露骨に、醜い争いを繰り広げるとは思わなかったはずだ。彼らは恥というものを知らないのだろうか。

『三国志』フィクションでは、魏延ただ一人が
「謀反を起こした裏切り者」
として描かれる。
しかし魏延も楊儀も、「どっちもどっち」。
何故、国が危機に陥っている時に、国民のことを忘れて権力闘争が出来るのか私は不思議に思う。
権力が欲しいという理由で内輪の争いをする、国民の利益を忘れたその姿勢こそ、国に対する裏切りではないか。

魏延も楊儀も、諸葛亮にとっては失いたくない優秀な武将だったはず。争ってなど欲しくなかっただろう。
そのため争いを放置したことが最悪の結果を招いた。
『演義』にもあるように、早めにどちらかを排除しておけば良かったろうに、放置したのが亮の甘さと言える。
そもそも放置して分裂を招いた亮は、劉備に比べてあまりに無能だった。その地位は器ではなかったのだろう。
魏延と楊儀の争いは醜いが、結局のところ全ての責任は諸葛亮にあるように思う。

ところで私は、馬岱が魏延を斬ったという事実から、彼もこの権力闘争に加わっていた者というイメージを抱いていた。
それで、馬岱にも出世欲があったのではないかという勝手な想像をしていた。
どうやら誤解だったよう。申し訳ない。

馬岱は、その時の最高司令官であった楊儀の命令に実直に従ったのみ。
だから記録上では、彼の意思や信条は分からない。
けれども馬岱が、国家の命に忠実な武将であったことは確かだろう。

忠義の臣という馬岱の一般イメージは、それほど的外れでもないように思う。

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