蜀同盟

蜀の民よ、集いたまえ。~諸葛亮中心の三国志話と、現代世俗話~

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蜀同盟(c)吉野圭

趙雲の実像

 趙雲(チャオ・ユィン)、字/子龍について。

彼の一般的イメージは、ウィキペディアによれば
「非常に勇猛、かつ義に篤い武将」
とのこと。
また『正史』の注釈には、
「身の丈八尺で、優れた容貌を持つ人物」
と記録されている。

趙雲は、『三国志』では典型的な偉丈夫キャラクターと言えるだろう。
実際、最前線で戦った将軍であることから、豪胆なイメージもつきまとう。
しかし現実の趙雲は、血筋の良い正統派のお坊ちゃんである。
諸葛亮ほど軟弱ではないけれど、どちらかというと線の細い男だと思ったほうがリアル。
趙雲の出仕当初、劉備がこの人を非常に気に入って、一緒に寝起きしていたという。諸葛亮が出仕した時と似ている。劉備に気に入られたという共通項から、趙雲と諸葛亮にはどこか似た雰囲気があったと推測される。(どうも劉備は、正統派の人物が好みだったようだ。…注、人としての好みの意)

私の小説で趙雲は、
「とても色が白くて繊細。律儀、笑ってしまうほど生真面目」
な人物として描くことにしている。
拙著:
shiryumini.gif 『子龍のこと』

このオリジナルイメージは、一般的イメージからかけ離れているため“趙雲”らしさがないと言われてしまいそう。

けれど、彼が「生真面目」だったことは記録に残っている。

 趙雲が残した絹を諸葛亮が将兵に分け与えようとしたところ、趙雲はこう言って反対した。
「あの戦いは負けたのです。なのにどうして下にわけ与えるのですか。この物資はすべて蔵に収め、十月になるのを待って、冬支度用に支給すべきではありませんか」
そのとおりだと思い、諸葛亮は大いに趙雲を誉めた。

『趙雲別伝』



諸葛亮は「ポイントさえ抑えていれば良い」という主義で、どちらかというと細部にはこだわらない大雑把なところがあった。
そんな諸葛亮とは違い、趙雲は細部も決しておろそかにしない――いや、おろそかに出来ないタイプだったのだと思う。
戦略の細部まで質問してきて、諸葛亮を辟易させた趙雲のイメージが浮かぶ。

偉丈夫な武将のイメージとはかけ離れているが、私は滑稽なほど律儀な趙雲のほうが好きだ。
生真面目な瞳の奥に潜むのは、やはり人間としての深い誠実と優しさだったろう。
そんな趙雲を諸葛亮も、年上の友人として・最後の頼れる将軍として慕っていたはず。
趙雲が死んだ時の諸葛亮の心痛は、万人の想像を越える。


【以下、参考資料引用】

趙雲(ちょううん ? - 229年)は中国、後漢末から三国時代の武将。字は子龍。常山郡真定県(現在の河北省正定県)の人。諡は順平侯。子は趙統・趙広がいる。

正史の注釈にある『趙雲別伝』(現在は散逸)によると、趙雲は身長八尺、姿や顔つきが際立って立派だった。故郷の常山郡から推挙され、官民の義勇兵を率いて公孫?の配下となった。

公孫?が袁紹と戦っている田楷の援軍として劉備を派遣した際に随行し、劉備の騎兵隊長となった。

『趙雲別伝』によると、その後趙雲は兄の喪のために公孫?の元を辞して故郷に帰ることとなり、劉備は趙雲が戻ってこないことを悟った、とある。(192年に常山郡が袁紹の手に移ったのが理由であろうか) 劉備が袁紹を頼ると(200年)、趙雲は?で目通りし、密かに募った数百人の兵を連れて劉備の配下となった。

建安13年(208年)、劉備が曹操の大軍に追われて逃走したとき、荊州の当陽県長坂で趙雲は劉備の息子阿斗(後の劉禅)を自ら抱え、また甘夫人(劉備夫人)を保護した。牙門将軍に昇進した。

同年、荊州平定に参加し、偏将軍、桂陽太守となった。

劉備の蜀入りの際には荊州に留まったが、建安18年(213年)、諸葛亮に率いられて張飛とともに長江をさかのぼって入蜀し、各郡県を平定した。趙雲は江州からは別の川を通って江陽に上った。蜀が平定された後、翊軍将軍に任ぜられた。

221年、孫権を討とうとする劉備を諫めるが聞き入れられず、趙雲は江州に留まった。

蜀の建興元年(223年)には中護軍・征南将軍に昇進し、永昌亭侯に封じられた。後、 鎮東将軍に昇進した。

同5年(227年)、諸葛亮とともに北伐に備えて漢中に駐留した。翌228年、諸葛亮は斜谷街道を通ると宣伝し、魏の曹真はこれを真に受けて大軍でおしよせた。趙雲は鄧芝とともにその相手をする囮となり、諸葛亮は祁山を攻めた。趙雲と鄧芝は箕谷で敗北したが、軍兵をとりまとめてよく守り、大敗には至らなかった。鎮軍将軍に降格された。

翌229年没し、長男の趙統があとを継いだ。

261年、趙雲は順平侯の諡を追贈された。『趙雲別伝』より姜維らの進言にいう。
「柔順・賢明・慈愛・恩恵を有する者を順と称し、仕事をするのに秩序があるのを平と称し、災禍・動乱を平定するのを平と称します。趙雲に順平侯の諡号を賜るのが至当と存じます」

『三国志演義』において趙雲は五虎大将軍の一人として、非常に勇猛、かつ義に篤い武将として描かれている。長坂では単騎で大軍の中を駆け抜け劉禅と甘夫人を救出し(麋夫人は井戸に身投げして自殺)、漢中攻め(定軍山の戦い)では黄忠らを救出し見事な撤退戦と空城計を演じ、劉備から「子龍は一身すべて肝なり」と賞賛され、軍中では虎威将軍と呼ばれるようになる。これらの活躍の多くは『趙雲別伝』を取り上げたものである。漢中攻めのエピソードは『資治通鑑』にも残っている。 『趙雲別伝』には他にも、桂陽を攻略した時に降伏してきた太守の趙範が自らの兄嫁(未亡人)との結婚を勧めたが「趙範はせっぱつまって投降したのであるから信用できない」と言って断った話(その後趙範はやはり逃亡した)や、益州支配後に劉備が益州に備蓄してあった財産や農地を分配しようとした際反対したとの記載がある。 劉備が入蜀の際趙雲を留営司馬に任じ奥向きのことを取り締まらせたことなどからも、趙雲が厳格な性格であったことが分かる。しかし長坂で阿斗を救出しなければ、蜀が早くに滅亡することはなかったと批難されることもある。

引用元ページ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E9%9B%B2

 

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