蜀同盟

蜀の民よ、集いたまえ。~諸葛亮中心の三国志話と、現代世俗話~

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蜀同盟(c)吉野圭

諸葛喬のこと

諸葛喬/しょかつ・きょう/字:伯松について。

この人は亮の兄である瑾の次男。
つまり、亮から見ると甥に当たる。

亮は始め子が出来なかったので、彼を養子としてもらいうけた。

喬が二十一歳で死んだという情報を聞いたけれど、私の漠然とした記憶では(これはまっとうではないかもしれない)、二十五歳くらいで死んだはず。
資料(※Wikipedia、正史)見るとやはり、204年生まれの227年死亡…一説には203年生だから、二十五歳か二十四歳(数え)で死亡している。
どちらにしても漢中で死んだ。戦死か陣中での病死。


諸葛亮ははじめ子がなかったため、兄の諸葛キンの次子諸葛喬を養子とした。…建興五年(227)、二十五歳で若死にした。

喬が若くして死亡した責任は、養父の亮にある。
喬を戦争に駆り出さなければ、いやその前に喬うを養子にもらわなければ……
兄の子を死なせてしまった亮が、激しい自責の念にかられたことは想像に難くないだろう。

しかしそもそも、何故、瑾は喬を養子に出したのだろうか。
亮から「この子をくれ」と指名することは考えられず、従って父親である瑾が、三人の息子の中から喬を選んだと思われる。

小耳に挟んだ情報によると、
「喬は妾の子だから、家族の中で浮いていて養子に出された」
と載せていたサイトがあったそうだ。
正確な記録からの引用かどうかは不明。 
…申し訳ない、私は『蜀書』以外を持っていないので基本的なことが分からないのだけど。もしかしたら『呉書』にはそのような事実が記載されているのか? (陳寿がそういうマイナスの経歴を書くとは思えないのだが)
個人的に私は、「喬が妾の子」という話は単なる噂ではないかなあ、と感じる。
――この件の真相、ご存知の方は教えていただけると幸いです。

ただ、喬が妾の子であるという噂がたつのも仕方がない。
遊び人だった長男・恪や、激しい性格の末子・融(逆だっけ)を見ると、目立たない次男は浮いた存在だったのではないかと思う。
実際のところ、亮に子供が出来なくて兄の子を養子にしたと言うより、
「喬を頼む」
という形で兄から託されたと考えたほうが自然。
自然だし、私はそうだったと思う。

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