蜀同盟

蜀の民よ、集いたまえ。~諸葛亮中心の三国志話と、現代世俗話~

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蜀同盟(c)吉野圭

諸葛亮は常識人? 「独創性」とは何だろう。村上龍氏の記事を読んで考えた

これはこちら向けの記事だったためプライベートブログから移動します。

2019/5/24筆。

気楽な雑談です。歴史含む。

 

「諸葛亮は常識人」……、か?


ネット検索していて、
「・・史実の諸葛亮は、常識人である。人が驚くような奇策を思いつくタイプではない。(渡邉義浩)」
という一節が目に入り失笑した。

 

検索で目に入ったレビュー:

hon-bako.com

これはこれで(渡邉氏の言い分「諸葛亮は常識人。人が驚くような奇策を思いつくタイプではない」は)今までの「神算鬼謀」から脱したつもりで極端な考えに偏り過ぎていて、史実までも無視した愚かな見解
単純に反対側へ走れば褒めてもらえると思っている。

歴史ファンにはバカが多いのだろうか? 

ごめんなさい撤回。
この間の知恵民などを見ると本物のマニアさんの知力は想像以上に凄い。
ただ少なくとも、歴史捏造の洗脳本を読んで鵜呑みにしてしまう人は、学生時代に相当お勉強ができなかったのだろうと感じる。特に国語の成績は低かったことだろう、行間どころか記録文そのものを読む能力がないのだから。

 

参考

rtk3alliance.kslabo.work


そんな自称プロ歴史家やその信者たちに比べると、一部マニアたちの知識は遥かに高く正確だ。
あくまでも軍事においては、彼らが「諸葛亮の軍隊の動かし方は手堅くローリスクだった」と仰るのは正しい。

 

※「諸葛亮の軍隊の動かし方は手堅くローリスク」:

rtk3alliance.kslabo.work

なおこれは軍事として当然と思う。
私も今、軍事を任されたら同じことをするはず。
ただそれは合理と人道に照らしてそうすべきと考えるから。
何故なら人の命が投じられる。人間の命を奇策というギャンブルに使ってはいけない。
(そもそも戦争を避けるべきだが、やむを得ないなら死傷者を最小にすべき)
それと奇策では長期の戦争を続けることは絶対不可能。

こう述べる私は普段から「常識人」というわけでもない。
私が常識人を名乗ったら「嘘つくな」と周りの人に怒られる。笑
真っ当でありたいと願うことと、世間の常識に合わせることはどうやら一致していないらしい。

同じく、戦場で道理を守った諸葛亮がプライベート・普段の仕事上で「常識人」だったとは限らない。

現実には諸葛亮は、現代人が思い浮かべる風紀委員のような「ガチガチの常識人」ではない。
それどころか、一種の変わり者だった。
おそらく当時の本人を知っている部下たちが存命中だったら、「諸葛亮は常識人」と決めつける上の記事にクレームが殺到していることだろう。

彼が「独自の発想を持っていた」ことは確かだと思う。
これは伝説フィクションではなく史料上の話。

陳寿が一言、「諸葛亮は生まれつき独創性があり(亮性長於巧思)」
と書いているのはよほどの変わり者エピソードを入手していたからだろうと思う。
※陳寿の上の箇所は機械の創意工夫について述べたものだったが、おそらく普段の態度などについても情報は得ていただろう。

だからフィクションも当たらずも遠からず……いや、遠いって。笑
それでもほんの微量ながら、現実個性のエッセンスは入っていたのかなと思う。エッセンスから話を膨らませたという感じか。
いくらなんでも膨らませ過ぎだろとは思うが。

常々私は「演義フィクション孔明のモデルは劉基だ」などと宣伝しているけど、現実に常識人の博士だった劉基先生よりは、諸葛亮のほうがフィクション孔明の要素はあると思う。
つまり変人イメージに巻き込まれた被害者は劉基のほうだった。
……申し訳ない劉基さん。(by孔明)

 

「独創性」って何なんだろう

(以降は筆者についての話です。紛らわしくて、すみません)


上の検索結果や最近知ったスキゾイドなどの性格特性について眺め、改めて「独創性」って何なのかなと考えた。

私も、性格診断テスト・占星術などでさんざん「独創性あり」と出るし、他人から言われることもある。だけど、自分にあるというその独創性が何であるのか分かったためしがない。
「変わった視点を持つ」「奇抜」と言われることに関しては、この間なんとなく理由を結論づけたのだが。

私は、自分自身であえて「独創性」を目指したことがない。本当に。
人と違った発想で新たなことを生み出そう、と努力したこともない。

たぶん、自慢として受け取られているだろうがこれは決して自慢ではない。
もしも本当に独創性があるなら活かしたいなと思っている。人生、残り少なくなってきたので焦りもある。
でも具体的に自分の何が「独創性ある」と言われるのか自覚できていないので、悩む。

そんなことを考えていたらこちらが目に留まった。村上龍氏の記事。

toyokeizai.net

龍氏は、父親の日記にこんな言葉を見つける。

「小さき息子よ、これを読むのはだいぶ先だろうが、気を悪くするなよ。はじめは、絵の勉強の邪魔になりそうだし、出費もかさむので、お前は、生まれてこないほうがいいと思っていたのだ」 

こんなことを書く父親がいるだろうかと思った。

「だが、いつしか、俺の生命の片割れは、たとえどんなやつだろうと、現れたほうがいいのかもしれないと思いはじめた。そして、どうせ生まれてくるなら、何かの傑物になれ、独創性ある仕事をする人になれと願いながら出現を待ったのだ」
「小さき我が子よ、恨むなかれ。貯金する余裕もなし。樹を植える場所もなし。もちろん金もなし。精神的な支援のみだ。だが、そうだな。何としても、独創性だけは身につけてくれ。独創性。それは貯金や植樹などよりはるかに重要なのだ」

 

……これは同情を禁じ得ない。
親からこんな言葉を遺されたら「独創性って何だ」と悩んでしまうだろう。
周りから「独創性があるんだから活かせ!」と言われ続けている私もたぶん、似たようなものか。

 

独創性、よく使われる言葉だ。「他人を真似ることなく、独自の考えでものごとを作り出す性質・能力」と辞書(大辞林 第三版)には記してある。だが、その定義はかなり曖昧だ。独自の考えで作り出した物事の、「価値」への言及がない。その価値を決めるのは誰かという問題もある。

 

ですよね。

独創性は曖昧で分からない言葉だ。その価値も目には見えない。
発明発見で特許を取れたなら分かりやすいが、技術者でも研究員でもない身では機会もない。

 

わたしは「創造性に充ちた小説」を書こうと思ったことがない。だが、誰の真似もしない。正確に言うと、「真似をしない」のではなく「できない」のだ。奇妙な言い方だが、「自分自身の真似・コピー」もしない。

 

意識したことがない点、私も同じだな。
(元芥川賞選考委員に対し偉そうに! 笑、低いレベルで同じということ)

「真似ができない」というところも同じ。
他人を模倣できないからこそ自然にオリジナリティが出てしまうのか。つまりこれはただ、「不器用」ということじゃないか……。

>「自分自身の真似・コピー」もしない

ということについては、私は無理であるらしい。ワンパターンなので。
意識して自分のコピーをしようとしたことは一度もないが、あえて過去と違った行動パターンを選ぶこともバカバカしい・恥ずかしいことだと今は思う。
だからとにかく意識はしない。
私は私のままで、ワンパターンでも気にしないし変化していくならそれも良し。

 

もっとも大きな疑問は、「独創性というのは努力すれば得られるのか」「訓練によって独創性は育つのだろうか」というものだ。「独創性を学ぶ教室」というものがあると仮定してみよう。独創性を持つ人は、そんな教室に入ろうと思うだろうか。

独創性とは、特定の個人、組織に自然発生して、それを維持させていくという意志ではないのだろうか。

 

全く同感だ。
多くの人は独創性が教育で身に着けられると思っている。
でも、独創性を目指す学校やセミナーへ通って「独創的タイプ」に育った人を見たことがない。それらしい仮面を被った芸術家は見かけるけれども。
そういう装いは、痛々しくて自分ならできない。


――上の記事はここから妙な方向へ。
どうやら宣伝広告のために書かれた記事だと気付く。まあいいか。

そんなわけで上記事には結論らしい結論がないのだけど、
“そよ風のような「独創性」”
という言葉は心に響いた。

そう。
あえて奇抜な行いをせず、突出した個性で際立ち目立つこともせず、それでも周りから見て
「他には居ない人」
と言っていただけるなら「そよ風のような独創性」を体現していることにならないか。

そんな、押しつけがましさのない変わり者になりたい。

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