蜀同盟

蜀の民よ、集いたまえ。~諸葛亮中心の三国志話と、現代世俗話~

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蜀同盟(c)吉野圭

歴史を学ぶ意味は「自分を知ること」。温故知新の逆で三国時代も理解できる

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※画像:ドラクロワ『民衆を率いる自由の女神』

民不在の『三国志』に違和感

『三国志』の解説書やファン同士の会話を眺めていて私が最も違和感を覚えるのは、民についての話が一切出て来ないことだ。

知識が豊富で、まるで当時生きていた人のように三国時代のことを語る超絶上級マニアでさえ、その時代に民が存在したことに想像が及ばないよう。

 

皆さん、三国時代は史書に記されたせいぜい数百人程度の人間しか中華大陸に存在しなかったと思っているのかもしれない。それはないとしても、名のある人たち以外は黙って殺される民と兵隊だけというイメージしかないらしい。

上級マニアではない人はもっと酷くて、曹操・孫権・劉備・関羽・張飛・諸葛亮……といったメジャーな人物数十人だけで時代を回していたと思っている。

いくら戸籍への登録者が少なかった三国時代と言っても、中華大陸の実際の人口がそこまで少ないことなど有り得ないだろうに。笑

 

そのように現実と乖離したイメージしか無いので

「諸葛亮は名士が有名にした」

などという渡邉義浩の稚拙な説を鵜呑みにする信者が多いのかもしれない。

 

さすがに上級者で渡邉説を鵜呑みにする知的弱者は皆無のようだが。参照:

rtk3alliance.kslabo.work

 

しかし現実は逆で、ほとんどの時代はトップリーダーではなく民のほうが動かしているのである。

たとえば劉備や諸葛亮はリアルタイムに当時の民衆の間で絶大人気を得て、曹操へ対抗するシンボルとして押し上げられた。『三国志』は民間伝承がもとになっているが、三国時代そのものも民が作ったと言っても過言ではない。

もちろん諸葛亮も「名士」つまり知識人たちが人気者にしたわけではない。名士たちは後から諸葛亮の民衆人気に便乗し、民におもねる批評をしただけのことである。

(名士・知識人は今で言うポピュリズムのメディア。視聴率を見ながら番組を作るテレビ局のようなもの。彼ら名士たちも民の人気が欲しかったのかもしれないし、本気で世評に影響されただけかもしれない)

 

現代の例で観察すれば分かること

こういったことは現在現実を注意深く観察していれば分かるはずだ。

 

いつの時代でも耳目を集める人たちは民の意識を反映したシンボル。

今の中国近辺で言えば、香港の周庭さんがそう。ダライ・ラマもそう。

悪いほうの例を挙げればヒトラーもそうだった。(ヒトラーは民主主義投票で選ばれたリーダー。そのことをドイツ国民も世界も忘れてはならない)

我が国で言えば、昭和天皇もそうだった。最近では安倍晋三さんもそうなりかけた。深く言及すると各方面から攻撃されるので控えるが、笑。

 

もちろん、リーダーたちが民の力だけで強制的に祭り上げられたと述べるのも極端だ。

これら耳目を集める人たちは突出した個性あるいは権力を生まれつき持っていたと言える。

たとえばヒトラーなどは天才的な演説の才能があったと認めざるを得ない。

ジャンヌ・ダルクには若さと美しさというアイドル性があったうえ、人々を説得する熱意があった。周庭さんも同様。

しかしそれでも、そのような特殊個性を認めて引きたてシンボルに掲げたのは民のほう。実質の力を握っているのは一般民と言えるのだ。

 

温故知新の逆も考える

「温故知新」と言うが、その逆も言える。

現代を眺めない者が古代など理解できるわけがない

古代歴史の知識を積むだけではなく、どうか近現代も観察して欲しい。そうすればもっと正しく古代の現実を理解できると思う。

 

もちろん時代が違えば状況も違う。

現代をそのまま古代に当てはめろと言っているわけではない。

ただ人間の本質的な行動は大差ないので、本質部分については現代を参考に考えるべきと思う。

 

たとえば古代も現代と同じく、トップの整然とした計画だけで世の中が動いていたわけではない。流動的な情勢に流されることもあった、ということ。

「流動的な情勢」とはほとんど「民の意志」と同義ということ。

民は無言で死ぬだけの存在ではなく、常にその時代の主人であったこと。等々……。

 

こういう現実が理解できなければ全ての個人=自分に力があることを理解できないのでは?

それでは唯々諾々と圧政を受け入れ、デマを鵜呑みにし、奴隷となって本当に無言で死んでいくだけの者となる。

 

先日話題となっていた「歴史を学ぶ意味がわからない」13歳にも言いたい。

anond.hatelabo.jp

確かに、バカな歴史学者が適当に改変し続ける教科書的な学習は無意味だが……。笑

まして渡邉義浩のような、イデオロギー的都合で勝手な改造をする歴史学者の話を鵜呑みにすることは、脳が汚染されるだけで有害でしかない。

割り切って、その場限りの無意味な記憶ゲームとみなして試験に臨めば楽しめるかもな。

 

しかしいずれ自分の頭で考え始めたらきっと分かってくる。

歴史を学ぶ意味は、このように「温故知新」と逆の視点とを繰り返し、現実の人間すなわち自分自身を学ぶことなのだと。

それは時代を動かす力さえ持つ、自分自身の真の力を思い出すことでもあるのだ。

 

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