蜀同盟

蜀の民よ、集いたまえ。~諸葛亮中心の三国志話と、現代世俗話~

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蜀同盟(c)吉野圭

諸葛孔明は石田三成に似ている、か?

という論をネットで見かけて面白く眺めていた。
⇒実際の諸葛孔明って日本の石田三成に似ていたって聞いたんだけど本当ですか?

どう、なのだろう?
私は石田三成の人生に詳しくないし、諸葛亮のことは客観的に見られないのではっきりとは分からないのだが。
考えてみます。

「諸葛亮(孔明)+性格」で検索して来られた方は、こちらの記事へどうぞ。別館です

ksnovel-labo.com


〔目次〕
兵站は最も重要な仕事のはずなのに
三成の不幸、正義や道義が重んじられないこの国
結局、似ているのかどうなのか? まとめ
私が諸葛亮に似ていると思う戦略家

兵站は最も重要な仕事のはずなのに


直観で、性格タイプは違うような気がする。

おそらく主君が死んだ後も忠誠を貫き戦った、という共通項だけで「似ている」と言っているのではないかな。
またフィクション孔明のイメージが「策略家」であるために、「策略家」キャラの石田三成に似ていると誰かが言い始めたのでは。つまりこれもフィクションに引きずられたイメージ。

と、思っていたのだが、こちらを読むと説得力はある。

⇒孔明と石田三成 (以下引用箇所はこちらのURLより)

秀吉は、しばしば20万とも30万とも言われる大軍を小田原や朝鮮半島に送り込んでいますが、それほどの大軍のロジスティックを整えることは、16世紀の技術を鑑みれば驚異的な偉業です。その偉業の仕掛け人こそ三成。石田三成は、まさに超絶的な天才管理部門長だったのです。


なるほどね。
職務内容は似ていたのかもしれないな。だいたい室内で過ごしているような地味な感じが。

ただ、そもそも「軍師」=「軍事関連の専門家/防衛担当」だから、後方にて戦争計画を立てるのが職務。
そして戦争計画の根幹は兵站。つまり戦争で必要な物資・人事の管理がメインだ。
このため戦略家であるなら誰でも兵站重視となる。逆に言えば、「管理部門長」の資質がなければ軍師として欠陥がある――と言うより中国的には「軍師」と呼ばれる資格がない――と言える。

しかし日本は古来、兵站の概念がほとんどなかったらしい。
※土地が狭いため兵站の必要性が低く、兵站中心に計画を立てる伝統がない。「軍事」と言えば長いこと、源義経のように、現場でパッとした奇策を立てて戦うことなのだと考えられてきた

だから日本で「軍師」と呼ばれる人たちは、現実には兵を率いて現場で戦う大将であったり、殿様の出兵に付き添う家臣であった。
そんななか、石田三成だけが本来的な「軍師」の仕事をしていたのかもしれないな。

三成の場合、朝鮮半島など日本国内ではあり得ない長い距離を進軍する戦争の計画を立てなければならなかった。だから必然的に兵站重視になったとも言える。
しかし必要に迫られたからと言ってすぐにできることでもないと思う。太平洋戦争時、日本軍は必要に迫られていたのに兵站軽視の傾向があった。ドイツ参謀から近代の軍事を学んだ後であるはずなのに。
石田三成が必要に迫られたとき、即座に長い距離の進軍計画を立てることができたのは相当に賢く優秀であったことの証。日本の土壌で生まれたことが奇跡の、稀有な人材だったのでは?

だが残念なことに日本では石田三成のような仕事は「軍師」と呼ばれない。
後方で物資・人材の管理に汲々としている者は、せいぜい「倉庫番」としか見られず見下されるのだろう。それで三成はあまり評価されなかったのかもしれない。
(全てにおいてそうだが、この国では最も大事な仕事をする人をバカにして低評価で貶める傾向がある)

管理者として優秀だった三成は、巧みな根回しの力で、家康を圧倒する大軍を糾合することに成功しました。しかし、彼には軍人としての奇才に欠けるところがあったため、重要な局面で常に退嬰的な戦法を取ってしまい、戦場でイニシアチブを握ることが出来ません。島津義弘などは、何度も積極攻勢を進言したのですが、三成は「危険だから」という理由でその意見を全て握りつぶしてしまいました。彼は、結局、防戦一方に陥ったところを味方に裏切られて敗れ去るのです。

管理部門長は、「リスクの軽減」を至上命題とする仕事なので、リスキーな戦法を極端に嫌う性向があります。それが、この局面で仇となったのです。


なるほど。確かに、諸葛亮の北伐の時に似ているな。
防戦のみに終始したのならあまり良くないね。

ただ、以下の表現は正確ではないなと思った。

>管理部門長は、「リスクの軽減」を至上命題とする仕事なので、リスキーな戦法を極端に嫌う

リスクの軽減を重視するのは「管理部門長」だけではない。
軍師、参謀、戦略家等々戦争計画を立てる者であるなら全ての者が「最小のリスクで最大の効果を得る」ことを第一とする。

たとえば分かりやすく現代で例を挙げると、コリン・パウエル。
パウエルは「撤退まで計画できなければ派兵は絶対にしない」と主張したため慎重派と呼ばれているが、彼だけが特別に慎重なのではなくて参謀として当たり前の態度だ。
リスク軽減の本能を持たなければ参謀長の仕事は務まらないだろう。務めるべきではない、とも思う。

本来、退陣するところまで計画ができていなければ軍隊を動かすのはご法度。
山本五十六のようにギャンブル的な作戦に打って出るのは、それしか選択肢がないときの緊急避難的な場合に限られ、戦争全体の計画でギャンブルを継続してはならない。
(山本五十六はギャンブルを継続するつもりは毛頭なかったと思う。敵国の実力と心理を読み誤った。と言うよりは、上層部の圧力に負けて仕方なく、だったはずだが)

三成の不幸、正義や道義が重んじられないこの国

 

三成は、同僚たちを容赦なく管理し締め付けたために、豊臣政権内で多くの政敵を作ってしまい、それが「関が原」大敗の原因になったのです。それは彼の「正義派」としての厳格な仕事ぶりが、正義よりも和(もたれあい)を重んじる平均的な日本人の精神風土に忌避されたからでしょう。そういう意味では、三成の最大の不幸は、正義や道義を重んじないこの島国に生まれたことかもしれません。
その点、孔明は、正義を大切にする文化を持つ中国で活躍したがゆえに、その不朽の名声を後世に残すことができたのでしょう。


>三成の最大の不幸は、正義や道義を重んじないこの島国に生まれたこと

これは悲しい。私もそう思う。
この国の人々の道義を重んじない態度には呆れるばかりだ。
(と言うよりこの国の人々、特に現代人の多くは、何が「道義」なのかもよく理解していない)

しかし中国人の全員が正義や道義を重んじるかというと、それも疑問だが……。
なにしろ中国こそ人治の国。法治主義である諸葛亮は遠方の庶民には慕われていても、周囲からは苦々しく思われていただろう。

それに三成が裏切られたのは三成自身の人望のなさが第一の理由ではなく、状況のせいではないかと思う。
つまり豊臣秀吉のせいだ。
死後に家臣の結束が崩れるような状況を作ったのは石田三成ではなく、豊臣秀吉だろう。

豊臣秀吉は、人徳において劉備とは比べ物にならない。
劉備の臣下たちが彼の死後にも裏切らず、結束していたのは何故か?
劉備自身の人徳が圧倒で高く、臣下たちに愛されていたからだ。

「忠誠を尽くす」ことは文字に書かれた法律に従うこととは違う。
結局は、こう言っては語弊があるのかもしれないが「愛(敬慕)」だろう。人が人を慕うという意味での。
人間は自分の本心を裏切ることができない。
本心から敬愛と信頼の心があれば、その心に従わざるを得ない。
諸葛亮が従ったのはその本心であって、文字に書かれた「忠誠」という法律ではない。

いっぽう三成は文字に書かれた「忠誠」という法律に従ったのではないかと思う。
偉い態度だとは認める。
だが本心でないなら周りは違和感を覚えるし、従うことはできないだろう。

私は個人的に徳川家康のほうに人徳の高さを感じる。
生き残りをかけた当事者たちが、関ケ原の前線で追い詰められた時、家康を選択したのも無理はないだろうと思ってしまう。
暗闇を飛ぶ虫が明るいほうを目指すように、人は人徳の高いほうへ引き寄せられていく本能を持つのだ。

結局、似ているのかどうなのか? まとめ


まとめると、

・石田三成と諸葛亮の職務内容には近いものがある
・ただし両者の置かれた状況も、性格タイプも全く違う

ということが言える。


ちなみに両者の性格タイプについて、決定的な違いを指摘するなら

◎石田三成は社会性に優れている

というところではないかな?
たぶんあまり知られていないだろうが、現実の諸葛亮は社会性が低い(笑)。

そんな両者の決定的な違いは、このエピソードに表れている。

このとき、有名な逸話がありますね。秀吉が、鷹狩の帰りにある山寺に寄ったとき、たまたまその寺で茶坊主をしていた三成が、秀吉に茶を振舞ったのです。最初は温いお茶、次に少し熱いお茶、最後に熱めのお茶を出した三成の機転に感心した秀吉は、住職に頼んで三成を部下に貰い受けたと言われています。
おおかた作り話なんでしょうけど、なんとなく「三顧の礼」に似た雰囲気のエピソードですな。あえて言うなら、「三茶の礼」ってとこでしょうか?


>なんとなく「三顧の礼」に似た雰囲気のエピソードですな。

いや、全く違うと思います(笑)。すみません。
むしろ正反対です。

上のエピソードは「お・も・て・な・し」でしょう。
つまり、秀吉への接待がうまかった、ということを表す。
秀吉は自分に対して気遣いのできる、愛想の良い人間を好んだということを表すエピソードだね。
(フィクションであっても、秀吉の性格をよく表している高度なフィクションだと思う。秀吉は自分に尻尾を振る人間を可愛がるタイプ)

私が思うに、劉備なら「三度も茶を出す」ようなことをする人間を激しく嫌っているはず。
「ご丁寧にどうも」
と言うかもしれないが、気にも留めないだろうな。
虫の居所が悪ければ「茶なんか適当でいいよ、面倒なことをしないでくれ」と怒るかもしれない。

劉備のような人は、自分に尻尾を振る人間を本能で嫌悪する。
過剰な接待、過剰な愛想の振りまき、おべっか。そのようなものに嫌悪を感じて遠ざける。
(汚い人間の心が嫌い。証拠:道理に合わない役人を半殺しの目に遭わせている。…半殺しはさすがにやり過ぎと思うが、人間の卑しさに対する潔癖とも言える態度がよく表れている実話だ)
だからこそ正直で素朴な人間で身の周りを固めたわけで、その典型が諸葛亮ではなかったのかなと推測している。

おそらく諸葛亮は秀吉のもとでは一瞬で潰れる。
ゴマをすることが全くできないので秀吉には相手にもされないだろう。
相手にされないどころか、マイペースであるため「気味悪い奴」「むかつく奴」と思われてすぐ殺されてしまうのでは?

このように、石田三成と諸葛亮は性格も違えば仕えた主人も違った。
諸葛亮の人生が幸福だったのは、ありのままの自分を気に入ってくれる主人と巡り合ったからではないだろうか。

私が諸葛亮に似ていると思う戦略家


おまけの話。

ネットでよく「諸葛孔明と似ている戦略家は誰か?」などという話がされているみたいなので考えているのだけど、誰だろうな。
私が諸葛亮と似ているなと思うのは、やはり秋山真之参謀ですかね。
真之は子供のころガキ大将だったらしく、そういうヤンチャなところは諸葛亮とまるで違うのだが、勉強の仕方はよく似ている。

記録による根拠。
孔明: 本質のみ抑えれば良しとし、勉強では大雑把にテキストを読み流していた
真之: 同上。一夜漬けでテストのヤマを当てる天才で、学生時代は学友たちにヤマを売っていた

あとは、黒島参謀も近い気がする。
諸葛亮は秋山・黒島ほど全開の「変人」ではないのだが(笑)、遠縁ではあると思う。
大らかな上司のもと、のびのびと作戦立案に没頭する状況が何より似ている。

秋山・黒島では変人ぶりが全開過ぎて想像と違うと言われるなら、クラウゼヴィッツはどうだろう。

身なりに気を使わない汚い変人ではなく、上品な貴族タイプだったクラウゼヴィッツ。
だがやはり作戦家らしくコミュニケーション不得手な一面があり、
「雑談が苦手で、人が多く集まる場所からはそそくさと逃げていた」
というエピソードを持つ。
現実の諸葛亮はたぶんこんなタイプ。
(もちろんクラウゼヴィッツと諸葛亮の主義は違う。「敵戦闘力の撃滅」などの激しい主張は、孫子を敬愛する諸葛亮には賛同できないはず)

諸葛亮の場合、立場が立場であったためにいつまでも作戦室に閉じ籠もっていられなかった。
そのため政治的なイメージがあるのだろうが、基本性格は上の作戦家たちに近いと思う。

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