蜀同盟

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劉基(伯温)先生~「魔法使い孔明」のモデル

劉基とは?

このあいだアマゾンをさまよっていて、劉基先生の本、『滴天髄』の全訳解説本を見つけて手に入れました。

劉基という名で思わず飛びついてしまったものです。
私は中国の占いについて勉強していたところだからちょうど良かったのですが、これは普通に占いの基本書ですから、占いに興味のない方にはお薦め出来ません。


滴天髄全訳精解―明朝版
鈴木 基弘
4885944619


何故ジャンル違いのこのブログ(※この記事を書いた当時は歴史ブログだった)でこんな占い書を紹介するかというと。
ただ劉基という人物を紹介したかったからです。

実は劉基とは、諸葛孔明のモデルになった人です。

は?……何言ってるの?
諸葛孔明のモデルは、実在していた諸葛孔明でしょ?

と思われた方へ。
いえ、違うんです。

一般的な『三国志』の創作、『三国演義』というフィクションの中で描かれている「諸葛孔明」という人物像は、この劉基という人をモデルにして創られていると言われています。

劉基とは明の時代の軍師です。
『三国演義』をまとめた羅貫中とほぼ同時代の人物であり、フィクションの中の諸葛亮というキャラクターを創作するにあたって、イメージモデルにされたようです。

劉基は軍師ではありましたが、占い師でもあったために、魔術的な力を持っていたと当時は思われていたようです。
魔術を駆使して戦いに勝利するように描かれることが多いみたいです。

まさに皆さんが思い描く、「諸葛孔明」ですね。

ちなみにこの劉基先生、中国では孔明より圧倒的に知名度のある人物で、人気もあります。諸葛孔明を知らなくても、劉基(字は伯温)は知っているという中国人が多いようです。

劉基こそイメージの被害者か

ところで私は長年、この劉基という方こそが白い扇子を振り回したり、「ふぉっふぉっふぉっ」と笑ったりするあの気色悪い奴なのだと思い込んでいました。笑

しかし、上の本を少し読んだ限りではいたって真面目な学者という印象です。

どうやら劉基も諸葛亮と同じく誇大なイメージの被害者のようです。

と言うより、調べてみたところ劉基は真面目な学者肌の人で、諸葛亮のほうがよほど変人タイプな気がしてきました。

(諸葛亮が劉基のイメージの被害者なのだと思っていましたが、劉基こそむしろ諸葛亮のイメージを投影された被害者かもしれないと思えてきた)

劉基には、失礼な印象を抱いていたなと心から反省しております。

史実の劉基、人物像

かつて私は自分の小説のモデルにする人物を探索していた頃、劉基も候補にあげて調べたことがありました。
しかしその時は、劉基の人生ストーリー(出来事の内容・年齢等)が自分のイメージの条件に全く合致しなかったため、ただ候補から除外しただけで、それ以来詳しく調べてみることもなかったのです。

改めて調べてみましたら、偉大な人ですね。

まずこの方、科挙に合格されている。勤勉かつ優秀。

そしてどれほど地位が上の相手でも臆さず進言して、左遷までされています。
晩年には地位と名誉を蹴って隠遁している。
欲得のない、高潔な人物です。

しかし、過酷な人生でありました。

以下引用

洪武4年(1371)に、引退を請うて、故郷に帰ります。県知事が尋ねてきても、一介の民と称して会わなかったとあります。 この動きは、劉基が名利を度外していたと同時に、おそらく朱元璋の猜疑心がひどく、功臣を粛清することを見越していたためであると考えられます。 このように注意していましたが、さしもの劉基も、胡惟庸から弾劾を受けることになります。 郷里に隠退していても、猜疑を免れぬと悟った劉基は、むしろ首都応天にあって韜晦していました。その後は、病を得て、病床に臥します。 洪武8年、65歳にて卒しますが、これは胡惟庸が毒を盛ったのだと言われます。明哲を誇った劉基も、最後の場面では自己の運命より免れえなかったとも言えましょう。

引用元、参照ページhttp://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~nikaido/liuji.html

……涙。

「蜀にいた趙天沢は、劉基を称して「諸葛孔明に類する」と評した」
とありますが、人生の苦労と人間の出来においてとうてい比べものになりません。

人格の優れた善き主君に恵まれ、最後まで手放しの信頼を得て幸福であった諸葛亮。
生涯、上からの猜疑を案じる必要や、まして「粛清」の影はわずかもありませんでした。(同世代または下位からの謀反と暗殺の可能性は多々あったが)

ところが劉基は、誰も保護してくれる主君などいないどころか、常に猜疑と粛清の危険にさらされていました。そのように身の危険を充分に感じているなかで正しいと思ったことを正しいと言える人でありました。

私は常々、思うのです。
独裁政権において、危険を承知のうえで正しい意見を言える人こそ真に人格が優れていると。
何故なら、自分だったらそんなことは出来ないだろうと想像するからです。
そんな勇気はとても持てない。独裁政権だったら口をつぐんでしまう弱虫は、結果として正しくない人間と同じだと思います。

だから劉基は真に優れた高潔な人物と言えるわけです。

諸葛亮のほうは何も不安を抱く必要がないほど上には恵まれたぶん、少々「若い」「未熟」な印象がつきまといます。
たしかに劉基と同じく欲得はないほうで、正しさを追求したいと考えてはいたはずですが、果たして現実に独裁者へ仕えたら意見を言えたかどうか。実際その状況に置かれていなかったため、事実としてどうだったか判定は出来ません。


この諸葛亮の幸福と、劉基の過酷な人生の違いのもとは何であろうかと言うと、やはり置かれた状況の違いにあると思います。

すなわち、諸葛亮は26歳の若さで20歳も年上の劉備に見出されて仕えたのに対し、劉基は逆に朱元璋より17歳上です。しかも朱元璋に仕えた時は苦労を重ねた後の壮年でした。

これを見れば明らかな通り、劉基は主君の「後見人」のような立場です。朱元璋は劉基を、「自分を助けてくれるはずの大先生」として救いを求めたのです。
(まさに『三国演義』のストーリーです)

いっぽう劉備は遥か年下の無名だった諸葛亮を、純粋に「将来の可能性ある若者」として見出したのではないかと推測されます。
後で書くように史実である劉備の遺言から、劉備が諸葛亮をそう見ていたことが分かるはずです。
つまり、劉備のほうが諸葛亮の「後見人」であり「保護者」なわけです。
朱元璋と劉基の関係とは、立場が真逆・正反対なのです。

※この記事しか読まれていない方へ解説: 一般の『三国志』で劉備は自らを救うために「諸葛大先生」の棲む隆中の庵を訪ねるのですが、事実そうではありません。事実は、若者らしく諸葛亮のほうが先に劉備のいる城へ“面接”に行ったのです(当時、劉備は有用な人材を求めて面接会を行っていた)。これは私の感覚として信じている話なのですが、二つの記録書に書かれていることなので現実そうであったと考えて良いでしょう。 →なお、変わり者の諸葛亮は面接会には行ったもののそのまま出仕せず、何故か音沙汰なしとなったため、劉備は止むを得ず再スカウトで迎えに行ったわけです。その後は諸葛亮本人が書いている通り、偉大な劉備が自ら迎えに来てくださったため仰天し恐縮して、大人しく従いました。ちなみに劉備という人物は、自分自身で直接に会って会話した人間でなければ信頼することはなかったはずです。噂で耳にしただけの「大先生」を無条件で信じてしまうことなど、劉備に限って絶対あり得ません。

一般に、『三国志』で諸葛孔明は劉備から「先生」と呼ばれています。
これは朱元璋が劉基を「先生」と仰いだことをモデルにしたので、そのようなイメージが定着したのだと思います。

しかし現実はこのように年齢も立場も正反対なので、劉備が諸葛亮を「先生」と仰ぐことなどなかったと考えられます。
もちろん諸葛亮は軍師将軍という立場にありましたので、劉備も公の場では彼を「先生」扱いしたかもしれません。ただ少なくともプライベートにおいて、劉備の心に諸葛亮を先生と仰ぐ気持ちはなかったということです。

劉備は諸葛亮を遥か年下として、「まだまだ青いな」と、いつまでも優しい目で見ていたような気がします。
だからこそ死の床で、諸葛亮に「あいつとは深く付き合うな」などの細かいアドバイスを遺しているのです。これが証。
自分が尊敬する「先生」にこんな細かいアドバイスなんて遺すものですか? これは親か兄の態度であり、先生に対する態度ではありませんよ。
どう考えてもおかしいでしょう、『三国演義』の設定。
根本から設定が違っていると言えます。

この点が『三国演義』で諸葛亮のモデルに劉基を使ったことの、最大の誤りであると私は思います。

そんな重大な設定間違いを犯しているフィクションから始まった誤解が、今日まで三国時代の真相を誤解させ、何より諸葛亮と劉備の人物像を捻じ曲げているのです。

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