自己肯定感の無かった自分が、どうにか肯定感を養うまで。「孔明」になくて「のび太」にあるもの

自己肯定感
http://hattatu-matome.ldblog.jp/archives/55675104.htmlより引用

ツイッターで「自己肯定感」という言葉がトレンド入りし、かつて絶望的に「自己肯定感」が無かった者として気になった。思うまま経験を書いてみる。

【参考記事】

1.のび太よ、お前が言うか……まさかの名言:
hattatu-matome.ldblog.jp
2.ものすごく共感した呟き:
anond.hatelabo.jp」
上の方への筆者コメント:
自己肯定感を養いたい
分かるな…。人類は多いから必ず他の人と被る。でも目の前のことに集中し、一所懸命にやっていればその時代その場のオンリーワンになれると思う。
2019/08/07 09:11

 かつて、絶望的に自己肯定感が無かった私

ここで自己紹介の自分語り。
(プライベートブログに通われている方はご存知の話だと思うので読み飛ばしてください)

かつて私は、平均より勉強ができた。
幼い頃のことだが、いわゆる「頭のイイ子供」だったらしい。
IQテストを受ければ親が呼び出され「この子を大切に育ててください」と言われた。クラス全員のなかで私一人だけ「さん」付けで呼ばれた(幼稚園~小学校低学年)。
「神童」という言葉がもうあまり使われなくなった時代だったのでそれは言われなかったが、最も多く浴びた台詞は
「末は博士か、大臣か」。

……これは自慢ではない。
今は何の実績も持たない普通の人、いや普通以下かな?
とにかく平々凡々以下の省エネ人生で生きているので、どうか嫉妬したり憎んだりしないでください。
私自身は「自分スゴイ!」と思ったことが一瞬もない。
だから筆者の自己評価を引きずり降ろそうとか「目を覚まさせよう」と気を遣われて罵倒しなくても大丈夫。
誰より自虐して自己肯定感を失っていたのは私自身なのだから。

何故あれほど褒められたのに自己肯定感を失っていたのかと言うと、たぶん褒められ過ぎたことが恐怖だったのだと思う。
賞賛されることに何の裏付けもないと自分では感じていて、「自分は無能だ」と否定し続けているうちに、やがて自分にとっての現実になってしまったのだな。

適度に子供を褒めることは、良いこと。
だけど行き過ぎた絶賛は人間に激しい恐怖を与えることをご存知?

私はずっと分厚い氷の壁の中に閉じ込められて鑑賞されている気分だった。
人間扱いされていない、人形として鑑賞される存在となる。話しかけてさえもらえない。僅かな温かみも得られない。その状況は激しい孤独であり、恐怖でしかなかった。
 子供は子供らしく扱われることで愛を感じ自己肯定感を得るもの。
私だって他の子と同じように先生から呼び捨てで呼んでもらいたかった。
愛を籠めてぞんざいに扱われ、友達から「ばーか(阿呆)」と言われて頭をパンと叩かれるような仲間に入りたかった。
そのささやかな夢を叶えるために、私は自虐した。

つい数年前に知ったことだけど、こういう心の状態は一種の病で「インポスター症候群(シンドローム)」と呼ぶのだと言う。
この解説を読んだ時は涙が流れた……。自分は明らかにこの症状に陥っていたのだと気付いた。
ja.wikipedia.org

「働き過ぎの燃え尽き症候群または過労死」はもちろん、現在の幼少期には当てはまらないのだが。
以下引用はまさにこの通り。小学校~ずっと「実力隠し」を実行していた。テストでわざと誤りの答えを記入するなどの行為。私は自分でこの行為を「犯罪」と思って苦しんでいた。
実力を隠す傾向
 偽物であると言う感情を促進させる理由に、症候群にある人たちは、自分の能力を隠そうとする傾向が考えられる。自分の能力や知性を見せたら人から嫌われると考え、自分は賢くなく、成功にも値しないと自分を信じ込ませている。

自己否定の自虐が徹底していた結果、私は自分の価値を僅かも見出せなくなってしまった。
高校生の頃には「自殺したい」とばかり毎日考えるようになっていた。

命を救ったのは異次元の方法(自己催眠療法)で、一般的には全くお奨めできない手段なのだが、私としては死ぬギリギリのところで踏みとどまることができたのだから良かったと思っている。
手段は何であろうと、生き延びられたことに今は感謝するだけだ。

諸葛亮(孔明)にも自己肯定感は無かったと思う

ここまで痛い自分語りをすれば、私が諸葛亮へ共鳴している理由が分かってもらえるだろうか? 
……まあ、これだけ語ってもたぶん普通の方には理解されないと思うが。

私は自己の体験として確信的に断言できる。
「孔明も、自己肯定感が無かったはずだ」と。
中華全土から激しく絶賛され、有り得ない魔法使い扱いされ。生きながらにして人形として祭り上げられた彼の孤独は現代の私の比ではない。
いくら「本当の自分はそうではない!」と叫んだところで、分厚い氷の壁に閉じこめられたような状態だったから声は誰にも届かず、背負わされた宿命を粛々と受けるしかない身……。
晩年はほとんど氷の冷たさも孤独の辛さも感じ取ることができなかったと思うが、現実以上に褒められ過ぎることのダメージが無意識に蓄積して追い詰められたのだと言える。

『後・出師表』は諸葛亮本人が書いたものではないと考えられるものの亮の身近な人が書いたと思われ、文章には本人の口癖が反映されているようだ。
「死して後已む(死だけが自分を止められる。死んでようやく終わる)」
も本人の口癖だったはずだし、
臣の才の弱く(自分は無能)」
という言葉が何より本人らしい。
これら本人の口癖と思われる言葉は、晩年の彼がインポスターシンドロームに陥っていたことの証明となるだろう。

自己肯定感の無い人は、藤子F作品を読むといいと思う

自虐が行き過ぎている孔明に比べて、のび太というキャラクターは素晴らしい。
親や先生から褒められた経験もあまり無いのに、そのままの自己を肯定している。日々泣いたり笑ったり懸命に生きていて幸福そうだ。
さらに、
「いちばんいけないのは、自分なんかだめだと思いこむことだよ」
と説教を垂れる。〔冒頭リンク1より〕
彼が言うと非常な説得力がある。私はこの言葉に叱責された想いで、情けなさと申し訳なさで頭を下げたくなる。

この理屈抜きの自己肯定感は、「孔明になくてのび太にあるもの」と言える。
人間が真に必要とするのは知性でも運動能力でもなく、自己も運命も肯定して生きていく「のび太」の才能だ。
孔明の本性は実は「のび太」だったと思うが、自信を喪失して自己肯定を失ったために「のび太」へ遠く及ばない人間となったのだった。

私は大人になってから「のび太」への尊敬心が日々増していくようだ。
のび太と言うより藤子F先生か。藤子F先生がこのキャラクターに投影させた
「あるべき人間の姿」
というものが素晴らしくて感動を覚える。

人間はそのままの存在でいい。
 テストで0点しか取れなくても。
運動ができなくても。
泣き虫で、弱虫で、ドラえもんがいなければ何もできない子でも。
何の取り柄もなくても、そのままで価値ある存在であることを「のび太」は教えてくれる。

もちろん藤子F先生は、できる側の子も認めてくれる。決して才能があることを憎まないし、「のび太」だけが正しい生き方なのだと決めつけることもしない。
現実のF先生自身は「のび太」ではなく「キテレツ」のほうであり、「高畑(エスパー魔美)」の苦悩を抱えていた。
(私は自分と同じことをしている高畑の存在が衝撃だった。他にも同じことをしている人がいたという話に救われた)

藤子F作品の素晴らしさは、できる子も・できない子も同等に肯定してくれることだ。できない子だけ励まし救い上げる作品は世界中に多い。でも反対の子はそのために益々孤独の世界へ追い詰められる。
でき過ぎて孤独に苛まれている子までも救ってくれる藤子F先生の作品は稀有。
彼の作品には全ての子に対し「そのままでいいんだ」と言ってくれる優しさがある。

※同じ救済活動をした奇跡の作家にヘルマン・ヘッセがいる。結局、私は自己の体験とともにこれら作品で少しずつ自己肯定感を養っていったのだと思う。創作を読むことも救いとなり得る

無能? それでもいいんじゃないとお気楽に構える。そして目の前のことへ自分なりに取り組む

私が死のギリギリ一歩手前で踏みとどまることができたのは、上にも書いた通り「異次元の手段」で自虐の原因を知ったから。
私はあまりにも重症過ぎたので特異な手法が必要だったらしいが、普通は幼少期まで思い出してみて
自己否定の原因を知る
ことでも充分だと思う。

まずは自分の心の状態について知ることだ。なるべく客観的に、詳細に。
「何故、その考え(自己否定)に至ったのか」
という原因を辿ることで自動ループの自己否定から抜け出せるはず。
その原因はもう過ぎ去っているのだと考える。過ぎ去った原因による考えに囚われる必要はない。
上記事でも冒頭に書かれているが、今目の前に否定してくる人間がいるならその人の前から遠ざかるのが第一歩。自分に対するものはもちろん他人に対するものでも、正当ではない悪口を聞かない・読まないようにする。(私は今、あえて読むようにしているので疲れているのだが。疲れが酷い時は意識を悪口から離す、無視をする)

次に、
自分は完璧ではなくても構わない
と知ること。

上記事(1)より引用、
自己肯定感とは、「俺すごい!」じゃなくて、「すごくは無いけど、まあまあ胸を張って生きていける」という感覚で十分。
I am OK, You are OK が基本です。Greatである必要はなく、OKで十分。そこそこで自分を認めていいんです。

今のままで十分です。
うん、そういうことだと思う。今の私はここ。笑
「自分スゴイ!」とは未だに思えない。ただし辛い孤独や数々の痛みを越えて、そこそこは頑張ってきた自分の努力も認めていこうと思っている。
これが今の私が得た肯定感。

ところで上の文章だと
「まあまあ胸張って、なんてできない。自分は少しも胸張って生きていけない」
という反論が来そうだな。
大事なのは他の人と比べるのではなく、自分のポテンシャルのなかで頑張って生きているということ。他人と比べて低レベルであっても自分の基準で「価値がある」と思うものに心を注ぐ。

 つまり「のび太」のように、ありのままで日々泣き笑いで生きればいい。
ただし目の前のことへ一所懸命に取り組むことだけはしなければならない。
(怠惰なだけでは成長がない)
「のび太」は基本的に怠惰だが、長編ではあれだけの必死さでとうてい敵いそうもない敵へ挑んでいく。少なくとも彼は、その時その場で目の前のことに必死で取り組んでいるのだ。
だから「のび太」はオンリーワンの、他に存在しない価値あるキャラクターとなっている。

そんな「オンリーワンなキャラクター」は
人格・時代・状況
三点が揃って生み出されるもの。
この三点が同じということは、人類の長い歴史においても全く有り得ない。

 上の匿名ブログ(2)で呟きをした人の考え方
「自分にできることは他人も当然できる(、だから自分には価値がない)」
 これはその通りで、この地上で誰一人として「自分にしかできない」能力を持つ人など存在しない。
オンリーワンの技術を持つかのように見える人がいたとしても、そんなの幻想。
他の時代・他の場所へ行けば同じくらいにできる人がいるのかもしれない。
この通り能力だけに着目していれば誰もが「他にもいる」という一言で無価値となってしまう。
 そうではなく、人格・時代・状況全てがオンリーワンキャラクターの要件だと考えれば、
「この世に一人として同じ人はいない」
と分かるかと思う。

ついでに言えば、自分が今の人生で経験する今この時もオンリーワンで二度と巡って来ない。
だから巡り合う今という一瞬を大事にしていかねばと思う。

そんなふうに今を大切に生きていけば、いつか「のび太」に届くのではないか? なんて野望を抱きながら生きている。


追加【参考リンク】

この記事を読んで、「子供を褒め過ぎるのも怖い…」と思ってしまわれたお父さんお母さん方、すみません。
褒められ過ぎて萎縮してしまいインポスターシンドロームを発症した私は、たぶん異常な褒められ方をしたのです。この場合、私と逆の性格タイプであれば超我が侭になって横暴な独裁者人格に育つ可能性もあります。どちらにしても良くありませんので過剰な褒め過ぎは禁物です。
こちら(下)のリンク記事は教師の方による子供の誉め方。
「事実を認めること+いいね!」だけで充分だそうです。それと「プロセスを褒める」こと。
www.slow-life.work
仰る通り、褒めることには裏付けと、対等な人間としての承認が必要です(崇拝はダメ)。私だって事実を認めてもらえたら嬉しくて自信を持つことができます。また、努力を認めてくれたら慰められます。
いずれにしても人間同士の正当な承認が自信に繋がりますね。

「正しい褒め方」具体例 >>孔明ファンそして孔明本人を勇気づける、かもしれないネット書き込み(正しい人間の褒め方)

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