古市憲寿、芥川賞選評でピンチ。選考委が「翻案」扱いしたのはまずいことだった


古市憲寿
「古市憲寿×意識高い系になれるスタンプ」より画像引用

文字通り「文藝春秋をまだ買っていないが芥川賞選考評は気になる」者(笑)として、こちらを興味深く読んだ。
anond.hatelabo.jp
上記事から選考評を引用。
まず山田詠美はこう書く。“(参考文献の)木村友祐作「天空の絵描きたち」を読んでみた。
そして、びっくり! 極めてシンプルで、奇をてらわない正攻法。候補作よりはるかにおもしろい”
“候補作が真似や剽窃に当たる訳ではない。もちろん、オマージュでもない。ここにあるのは、もっとずっと巧妙な、何か。それについて考えると哀しくなって来る”

続いて川上弘美。“結論からいいます。わたしは悲しかった。木村友祐さんの声がそのまま「百の夜は跳ねて」の中に、消化されず、ひどく生のまま、響いていると、強く感じてしまったからです”
“古市さんのおこなったことは、ものを創り出そうとする者としての矜持にかける行為であると、わたしは思います”

吉田修一。“本作に対して、盗作とはまた別種のいやらしさを感じた”
“あいにく『天空の…』の方は書籍化さえされておらず入手困難であり、まさにこの辺りに本作が持ついやらしさがあるように思う。”

堀江敏幸。“他者の小説の、最も重要な部分をかっぱいでも、ガラスは濁るだけではないか”(原文では「かっぱいでも」に傍点あり)
相当な叱られように驚く。
お叱りと言うよりほとんど犯罪者のような憎まれようだ。

選考委たちの評価は法的にかなりまずい

上記事のブログ主さんが
要するに、古市さん、文芸誌に掲載されたが出版されていない佳作を探してきて、うまいこと翻案して小説書いたようである。
と思わず書き、
選評からの推測で「翻案」などと評したのは、勇み足だった。
お詫びしたい。
 と謝罪をされているのだが、選考評を読んだ一般の方が「翻案」と受け取っても仕方がないと思う。

何故なら選考委たちは
「候補作が真似や剽窃に当たる訳ではない」
と言いながら、「巧妙な何か」「(参考小説が)生のまま響いている」「(参考小説が出版されていないことへの)いやらしさ」と評価している。
これはほぼ「翻案した」と断言しているに等しい。

実は、先生方が仰る「翻案」――元の作品の根本を保ちながら少し設定を変え二次的な著作物とすること――は、許諾なく行われた場合には刑罰も発生する重大な罪。
つまり選考委の先生方は、公の場で他人を犯罪者扱いしてしまったことになる。
これは小説評価の範疇を逸脱している。

もしこの評価で古市氏がコメンテーターや著作などの仕事を失ったとしたら、彼は選考委たちへ賠償請求できるし、選考委たちに名誉毀損罪も十分に成立し得る。(あくまでも可能性として。訴えるための要件は揃うということ)
古市氏は内心傷付いても表立って騒ぐようなタイプではなさそう。
しかし権利侵害に敏感な人であれば裁判沙汰となることは避けられないだろう。

翻案と剽窃、罪の重さ

一般には「剽窃(ひょうせつ)」という言葉はもっとも重い盗作の罪だと思われているらしい。
難しい言葉の響きから罪の重さを感じられる人が多いのだと思う。
だから「剽窃」という言葉が使われただけで、悪質な盗作が行われたのだというイメージが拡散する。

しかし実は「剽窃」は法律用語ではない。
単に論文などで、参考文献を示さずに引用してしまうなどといった行いを指す。
自分の論文からの引用でも出典を示さなければ「剽窃」となるので、必ずしも法的に罪が問われるわけではない。

これと違って、許諾のない「翻案」で二次的な創作をすることは著作権侵害の罪である。
著作権侵害をした場合、刑事・民事の両方で訴えられることになる。
翻案の場合は勝手に元の文章や設定などの内容を変えたということで、人格権の侵害ともなるから慰謝料が重くなるケースが多い。
(ネット上で雇われたライターが行う「文章リライト」もこれに当たる。リライトのバイトは要注意、受けてはなりません。罪に問われることもある)

古市氏の作品がどの程度、参考文献たる木村友祐氏の小説に似ていたのかは分からないが、もし仮に二次的著作だったとしても作者の許諾があれば罪には当たらない。
そして当事者である木村氏の話によれば、おそらく二次的著作ですらない。
このような事実を知らしめるツイートをする作者さんは絶対イイ人だと思った。

余談。レスから揚げ足とりしたい欲が透けて見える

このツイートの返信(リプ)を眺めていると、世間で言うところの「ぽっと出の有名人」を引きずり下ろしたい欲望を持つ人たちが多いなと感じて悲しくなる。
とにかく今回のことをただバッシングのチャンスと見て、古市氏が「盗作をしたのだ」と決めつけ貶めたいらしい。

他の場でも古市氏が「しゃらくせえ奴」と呼ばれていて、関係ないが私も何気に傷付く。
明らかなインテリ差別を感じるな。
こういうコメントを眺めていて、日本人のインテリ差別は今もまだ相当重症なのだと思った。

私は個人的に古市氏には共感するところが多いので(意見内容ではなく性格に)、たぶん正直ゆえに「参考書籍」を掲示してしまっただけで盗作の意図はなかったと想像する。

おそらくだが、「窓拭きの清掃員の小説を書きたい」と言った時に編集者が「それなら知っている人がいる」と作家さんを紹介してくれたのではないかな。木村氏もそう仰っているが。
古市氏は木村氏と会う前に、失礼にならないよう木村氏の小説を読んだ。
それで小説初心者は必ずそうなるのだが、直近読んだ小説にどこかしら引きずられてしなう。情報に対して真面目であろうとすればするほど、参考としたものを取り入れなければならないと意識するからだ。
……ということ、小説を書いたことがあれば分かるはず。
上で批判的なレスをしている人たちは小説を書いたことがあるのか? 書いたことがある人がもしいたら聞きたい、完全にオリジナル性を打ち出した生命ある小説を、あなたは始めから書けたのか? 
全員が「自分は文豪なみに完全個性的な小説を書ける」と豪語しているかのように偉そうで呆れる。

まあ世間など概ねこんなものと諦めているが……。
今回の件、最も悪いのは小説をそれまで書いたことがない人に小説を書かせ、出版してしまった編集者だと思う。それと知名度に乗っかり話題性を獲得しようとする芥川賞。
又吉氏の成功は例外で(あれも私はどうかと思った。『火花』は良い小説だが芥川賞作品ではないと感じた)、彼のように長年にわたって小説を深く読み込んできた読書マニアに依頼するならまだしも、小説を書いたことも読んだこともあまりないコメンテーターやアイドル等々へ書かせるのはやめて欲しい。

「読者はバカだから有名人が書いた小説の受賞作というだけで買う」と思っている。確かに売上は上がるのだろうが、普段小説を買わない興味本位のにわかが買っているだけだろう。
本来の客「お得意さま」であるはずの、普段本を買っている読者をなめ過ぎ。
そもそも小説をなめ過ぎ。
挙句の果てには候補作の作家を犯罪者扱いして貶めるとは。
何より問題なのはこういった文壇の傲慢だと思う。これでは小説が売れなくなって当たり前。

小説の評価は、どこまで許されるのか

最後に「小説の評価」と「悪口(名誉毀損・侮辱罪)」との違いを考えてみる。
小説評価、感想としてはどこまで許されるか。

まず、作者の人格的なことに言及するのは明らかに小説の評価としては筋違いだ。

もちろん文章に著者の人柄が滲み出る、ということはあるのかもしれない。
だから芥川賞のような著名な文学賞であれば、ある程度「作者の品格のあるなし」が語られても良いとは思う。
でも今回のように犯罪者認定の人格攻撃は、どう考えてもまずい。

そもそも参考書籍は作品の選定に関係がないのでは?
(法的にパクリがあったかなかったか、判断せねばならないのは裁判所であって作家の先生方ではない。法的知識のない作家先生に判断は無理である)
文学賞であればなおさらその背景にどのような取材があったかなどの経緯ではなく、
作品単体
で評価すべきではないのか。
オリンピックの勝負が、その大会その時の結果だけにかかっていて選手のバックグラウンドは考慮されないように。

古市氏の小説そのものを「あざとい」「未消化だ」と評価するなら正当だったろう。
他の情報がなければ作品を評価する実力がない人は、選考委としての資質に欠けると思う。
なんて偉そうなことを言っているが、これは客である読者としての訴え。
文学賞を選ぶ先生方が作品単体で評価する実力のない人であれば、小説のレベルはどんどん下がることになる。客の我々にとって迷惑なことしかない。

最後に余計なことかもしれないが山田氏の評

>木村友祐作「天空の絵描きたち」を読んでみた。
>そして、びっくり! 極めてシンプルで、奇をてらわない正攻法。候補作よりはるかにおもしろい

が、とても引っ掛かった。
「シンプルで奇をてらわない正攻法で面白い」……? 
その評価をされる時点でもう芥川賞作品という分野の小説ではないから、芥川賞候補作と比べてはダメなはずだが。
個人的に私はシンプルな正攻法の小説(つまり芥川賞作品以外)のほうが好きで、だからきっと木村氏の小説を好きになりそうな気がする。
しかし文学賞ごとに選ばれる作品に共通の基準があると思うのだよね。それこそ文学賞の個性というもの。
読者としては一応、文学賞を店の看板のような「作品の味わい」を示す基準と見るから、選考委に賞の「味わい」基準だけは分かっていて欲しい。他の文学賞作品と候補作を混同して語るような人が選考委であるのは困る。

8/20追加 参考リンク

こちら、日経新聞でこの件について書かれた日比嘉高氏が「補足」として詳細な記事を書かれています。
hibi.hatenadiary.jp引用。
古市さんが盗作や剽窃をしたとかアイデアを盗んだとかいう意見もあるようですが、その批判は該当しないと思います。ビルの窓ふきというモチーフ自体にオリジナリティがあるわけではない。たとえば以下の方も指摘しているように、辻内智貴さん「青空のルーレット」(2001)という作品もある。

しかも古市さんは木村さんに「取材」を申込み、木村さんが情報や人を紹介したようで、しかも参考文献に明示しているから手続き的は、いたってホワイトでしょう。問題は別のレベルにある。私が日経新聞のコメントで「対話関係」とかいっている点。

古市さんの「百の夜は跳ねて」は、木村さんの「天空の絵描きたち」が提示したプレカリアスな状況の中で、誇りを持って働く主人公やその仲間たちという「職人」の物語について、なんらかの応答を含んでしかるべきだった。が私には、それが読めなかった。腹を立てた芥川賞の一部の選考委員たちにも、そうだったのではないかと推測する。

仰る通り手続き的には完全に「ホワイト」だろう。木村氏の作品そのものに依拠していないなら著作権法的にも問題なしと判断されるはず。
問題は作品の内容だが、そもそも我々読者は新人作家のための賞である芥川賞にさほどの期待はしていないのだけど、

>が私には、それが読めなかった。腹を立てた芥川賞の一部の選考委員たちにも、そうだったのではないか

お話の次元が違うので苦笑した。
ほぼ初めて小説を書いたに等しい素人さんに、いくらなんでも高度な技術を求め過ぎではないのか?

何より一番の問題は、そんな素人さんがいきなり出版社から小説を出し、いきなり芥川賞候補作品に押し上げられるという日本の文壇の黒い体質にあると思う。
小説を書いた人の知名度だけで商業出版する出版社、それを賞の候補として掲げ話題獲得を狙う文学賞主催者たち。
祭り上げられ、話題性だけ提供して利用されたあげくに、こうして名誉毀損までされて貶められた古市氏の立場はどうなるのだろう?
そもそもこんな話に乗ってしまうのもどうかと思うが、大人たちの腹黒さなど学者上がりの若者には読めないよな。
同情を禁じ得ない。

それから客である読者としても腹立たしい。
文学賞を主催する人たちは読書好き、小説好きの我々を馬鹿にし過ぎ。
こんな「日ごろ本を読まない人たち騙し」の商売をやっているから日本の小説は買う気が起きないのだ。

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